2009年06月16日

患者が空中に飛散している植物の花粉と接触した結果

花粉症は、患者が空中に飛散している植物の花粉と接触した結果、後天的に免疫を獲得し、その後再び花粉に接触することで過剰な免疫反応、すなわちアレルギー反応を起こすものである。アレルギーの中でも、IgE(免疫グロブリンE)と肥満細胞(マスト細胞)によるメカニズムが大きく関与する、即時型のI型アレルギーの代表的なものである。

同じI型アレルギーが主であるアトピー性皮膚炎では、IV型のアレルギー反応も部分的に関与するといわれる(症例によってはIII型も関与するといわれるが確証はない)。花粉症でも、皮膚症状が出る場合は、IV型(すなわち接触性皮膚炎。いわゆるかぶれである)が関与している場合もあるだろうと考えられている。

ここでは、即時型のI型アレルギーのみを紹介している。また、一つの仮説としてTh細胞バランスを紹介する。

アレルギー反応のメカニズム [編集]
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール

感作成立 [編集]
花粉症の患者は、症状が現れる以前にそのアレルギーの元(アレルゲン)になる花粉に接触している。目や鼻などの粘膜に花粉が付着すると、花粉内およびオービクルからアレルゲンとなるタンパク質が溶け出し、マクロファージ(貪食細胞)に取り込まれ、非自己(異物)であると認識される。この情報は胸腺由来のリンパ球であるヘルパーT細胞のうちのTh2を介し、骨髄由来のリンパ球であるB細胞に伝えられる。そして、B細胞はその花粉アレルゲンと特異的に反応する抗体を作り出す。

抗体は本来、体内に侵入した病原細菌や毒素などの異物を排除・無害化するためのものであり、ヒトにはIgG、IgM、IgA、IgD、IgEの5つのタイプが存在するが、花粉症の患者で最も重要なのがIgEである。(こうした抗体が関与する免疫反応を液性免疫という。)このIgEは、血液や粘膜中に存在する肥満細胞や好塩基球に結合し、再び花粉アレルゲンが侵入してIgEに結合すると、様々な化学伝達物質(ケミカルメディエーター)が遊離して症状を引き起こすことになる。(後述)

なお、IgEが一定レベルまで肥満細胞に結合した時を感作が成立したと言い、発症の準備が整ったことになる。どの程度までIgEが蓄積されると発症するかなどは個人差が大きいと考えられている。また、IgEのレベル以外に発症を誘引する因子があるのかないのかなどについても詳しいことは分かっていない。いずれにしろ、ある年に突然に花粉症が発症したように思えても、それまで体内では発症のための準備が着々と進んでいたということである。このことを理解しやすくするため、一般にアレルギーコップという例えがよく用いられる。すなわち、体内のコップに長期間かけて一定レベルの発症原因がたまり、それがあふれると突然に発症するというものである。

感作が一旦、成立すると、原則的に花粉症の自然治癒は困難である。病原菌などに対する免疫と同様、「花粉は異物である」との情報が記憶されるためである。

2009年05月30日

清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上。近衛大将・大臣を兼任し、最高は太政大臣まで昇進できる。ただし、江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者に限られ、清華家の極官は事実上左大臣となる(もっとも、その左大臣の任官も江戸期には10例と少なく、在任期間も短い)。また、江戸時代においては初任官が従五位下侍従を振り出し(摂家は正五位下近衛権少将)、近衛権中将、権中納言、権大納言(近衛大将を兼ねることが出来たが、当時左近衛大将は摂家が独占していたため、右近衛大将のみ)を経て大臣になったが、昇進速度は摂家よりも遅く大臣になっても短期である例も多かった。

英雄家、華族ともいう。明治以前は、華族というと清華家を指した。摂家と清華家の子弟は、公達(きんだち)と呼ばれた。明治の華族令によって、原則的には侯爵に叙されることになったが、維新の功績によって三条家は公爵とされ、また一旦侯爵とされた西園寺家と徳大寺家も後に公爵に陞爵した。
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清華家は最終的に以下の9家。うち4家は閑院流藤原氏(三条家・西園寺家・徳大寺家・今出川家)。なお、同じく閑院流藤原氏の洞院家も、鎌倉?室町期に太政大臣を含む大臣をたびたび輩出しているが、戦国時代の初めに断絶しているため、江戸時代に確立した清華家他の公家の家格に該当するものがない。

2009年04月27日

軍事行動は宣戦布告

大規模な軍事行動は宣戦布告がないまま1939年9月1日午前4時40分に開始され、ドイツ空軍がポーランドの街ヴィエルニを奇襲攻撃し、爆撃でその75%を破壊、ほぼ1,200人の市民を殺害した。5分後の午前4時45分には旧式戦艦のシュレスヴィヒ‐ホルシュタインが、バルト海に臨んだダンチヒ自由都市郊外に

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ポーランドの飛び領土となっていたヴェステルプラッテの要塞に対し砲撃を加えた。同日は、ドイツ空軍がポーランドの各都市を爆撃するとともに、ドイツ陸軍がポーランド国境の西、南、北の3方から一斉に進撃を開始した。午前8時にはその数時間前から行われていたドイツ空軍の急降下爆撃に支援されたドイツ陸軍南部軍集団に属する2個装甲師団および1個歩兵師団が、ポーランド領シレジアの村モクラ近郊において地上攻撃を開始したが、ポーランド軍1個騎兵旅団(ヴォウィン騎兵旅団)、1個歩兵師団のいくつかの部隊、および数時間後に到着した1本の装甲列車(No.53「シミャウィ」号)によって同日中に撃退された。ドイツ軍の主力はポーランド西部国境から東へ向かうルートを進んだ。第2のルートは北の東プロイセンから進軍し、南方のスロヴァキアからは第3のルートとしてドイツ軍とスロヴァキア人部隊(ベルノラーク軍)が進軍した。これら全ての侵略軍はポーランドの首都ワルシャワを最終目標とした。

2009年04月10日

古くは低音への音域の拡張

古くは低音への音域の拡張を期待される楽器だった。音楽教会では合唱の伴奏楽器として使われた。音程が正確にとれること、楽器の構造がシンプルであることから、トロンボーンによるハーモニーは非常に美しく、人間の声ともよくブレンドする。また、トロンボーンの音色は、様々な楽器の中で人間の声に最も近い音色だと言われている。スライドを操作するという構造上の理由から、早いパッセージは苦手である。逆に、音程を連続的に変化させるポルタメントは得意技と言ってよい。

古典派の時代まではオーケストラでの出番は少なかったが、大規模な編成が要求されるようになるとトロンボーンも加わるようになった。多くの場合、トロンボーン3本(アルト・テナー・バス各1、またはテナー2・バス1)にチューバの4声セットで使用され、美しいコラールを奏でたり、あるいはチェロやコントラバス、ファゴットなどの低音楽器とユニゾンで和声を充実させたりした。またホルン群とのユニゾンも多い。独奏はトランペットやホルンと比較すると少ないが、独自の音域と音色によって、静かな場面で独奏が用いられることが多い(モーツァルトの『レクイエム』など)。しかし強奏時においてはオーケストラの他のパートを圧倒する威力を持つ。19世紀後半から20世紀初頭にかけてはコントラバス・トロンボーンも用いられた。

他の楽器に比べると独奏者、独奏曲のどちらにも恵まれておらず、一部の演奏家が精力的にレパートリーを拡大しているものの、ソロ楽器としての一般的な認知は低い。早いパッセージが苦手なことがその大きな理由だろう。ただし現代では重音奏法や超高音域・低音域、素早いパッセージなど特殊奏法の開拓が幅広く行なわれている。

また、同種の楽器によるアンサンブルが非常にさかんな楽器の1つであり、最も一般的な形態はトロンボーン四重奏である。

その他の分野 [編集]
ジャズではディキシーランド・ジャズの頃からすでに代表的な地位を確立し、ビッグバンドのホーン・セクションの一員としてだけでなく、独奏楽器としても活躍の場も多かった。そしてその後のスウィング・ジャズなどの時代ではバンド内の主役楽器として活躍していたが、ジャズのスタイルが変化していくにつれて、次第に主役としての地位を他の楽器に渡すことになる。

楽器の調性は変ロ調(B-dur)だが、楽譜はピアノなどと同じく実音で書かれる。低音部譜表が一般的だが、高音のパートではテナー譜表・アルト譜表も使われる。オーケストラでは曲中で譜表が変わることは少なく、1番がアルトまたはテナー譜表、2番がテナー譜表、3番(バス)が低音部譜表というのが一般的である。吹奏楽においては基本的に低音部譜表に記され、高音部分に稀にテナーあるいはアルト譜表が用いられる。英国式ブラスバンドではバストロンボーンのパート以外は移調楽器として扱われ、実音に対し長9度高いト音譜表で記譜される。注意されたいのは、低音域について、管長が長くなるにつれてポジションの間隔が広くなっていくため、迂回管が2本あるバストロンボーン以外の楽器ではヘ音記号下第3線のH(一オクターブ下も同様)を演奏することができない。しかし、強制倍音と呼ばれる奏法を用いることにより、「無理をして唇を開けに開けて瞬間的にHの音を奏する可能性がないわけでもない。」(村田厚生)

種類 [編集]
トロンボーンは、その音域・機能などによって以下の様に分けることができる。また、テナートロンボーンやF管アタッチメント付テナートロンボーン等を、管の内径(ボアサイズ)によって太管、中細管、細管と細かく呼び分けることもある。その際、スライドのマウスパイプ側とジョイント側で異なるボアサイズを組み合わせたものはデュアルボアと通称される。

音域による分類 [編集]

ピッコロトロンボーン [編集]
ピッコロトロンボーン(piccolo trombone)は、テナートロンボーンより2オクターブ高いB管の楽器で、管長はピッコロトランペットと同じである。非常に珍しい楽器で、使われる機会はめったにない。また、この楽器は無理矢理作ったものなので、音程が悪い。主にトランペット奏者が使う。

ソプラノトロンボーン [編集]
ソプラノトロンボーン(soprano trombone)は、テナートロンボーンよりも1オクターブ高いB管の楽器で、B管のトランペットと管長が同じである。そのためトロンボーンというよりはスライド式のトランペットといった趣きだが、スライドトランペットに比べるとボアやベル、用いるマウスピースが大きく、音色もより太く暖かい。現代ではあまり使われない。

アルトトロンボーン [編集]
アルトトロンボーン(alto trombone)は、テナートロンボーンよりも小ぶりで、標準的には4度高いEs管である。5度高いF管、さらにはD管の楽器も存在する。B管の迂回管や、トリルキィを持つものもある。人の声とよく溶け合い、合唱付のオーケストラ曲や、トロンボーンアンサンブル曲などで用いられることが多い。また、製造するメーカーによって仕様が大幅に異なるので、一口にアルトトロンボーンといっても、楽器によって大きく音色が変わってくる。

テナートロンボーン
テナートロンボーン(tenor trombome)は、最も基本的な構造をした、トロンボーンの代表格とされる楽器である。B管で、テノール・トロンボーンともいう。音域的には、男性の声と最も近いといわれる。しかし、トロンボーンの代表格であるテナーだが、軽音楽以外の分野ではその座をテナーバスに譲ってしまっている。その理由としては、第1倍音と第2倍音の間の音域であるヘ音記号下第一線のEsから下第三間のH(1オクターブ下も同様)までが演奏することが出来ないことが挙げられる。また、スライドを最大限に伸ばす第7ポジションを用いる場合、小柄な人は手が届かず、紐を使わないといけない場合が有る。また、余裕を持って手が届く場合でも、離れたポジションから第7ポジションへ素早くスライドさせるには相当の訓練が必要である。

F管アタッチメント付テナートロンボーン [編集]
F管アタッチメント付テナートロンボーンは、テナートロンボーンに1つの追加のバルブを持たせた楽器である。バルブを使用する事により、テナートロンボーンが出せる最低音(E)の長3度下のCまで音域が広がるため、日本国内では、テナーバストロンボーンという呼称が広く普及している。このためか、F管アタッチメントが付いていないテナートロンボーンよりも、ボアやベルが大きい楽器が多い。

F管アタッチメント付テナートロンボーンの仕組みとその利点 [編集]
上述のテナートロンボーンの問題を解決するのがF管アタッチメント付テナートロンボーンである。F管アタッチメント付テナーはテナーのベル側ジョイントのすぐ上や、チューニングスライド(B管)にF管アタッチメントを装着した楽器で、F管のバルブを操作してF管を迂回させることによって管長を増やし、完全4度音を下げることによって、演奏できなかった音域が演奏できるようになるというシステムである。また、この仕組みの副産物として、腕を伸ばさないといけない第6・第7ポジションの音も、第1ポジションや第2ポジションといった近いポジションで演奏できるようになった。

F管アタッチメント付テナートロンボーンの短所 [編集]
F管アタッチメント付テナーには短所もある。

テナーに比べ重量が増す。
テナーに比べ楽器の構造が複雑になるので、F管アタッチメント未使用時でも抵抗感が増す。
F管アタッチメント使用時と未使用時の音色に差が出る。
一部の機種ではベルから後ろが長くなる(オープンラップ)。
テナーに比べ値段が割高になる。
これらは、いずれも1つの管というシンプルな構造だったテナーにF管を組み込んだことで発生するものだが、特に3つ目の短所は直管楽器であるトロンボーンにとっては軽視できない。このため、せめてF管使用時だけでも抵抗を減らそうと、F管をなるべくストレートにして抵抗を減らしたオープンラップタイプも登場したが、今度は4番目の問題が発生した。しかし、近年ではS.E.Shires社やEdwards社、Bach社等がバルブを取り外してテナートロンボーンにすることの出来る楽器を製造していたり、S.E.Shires社がバルブの未使用時はテナーと同じ構造になるバルブ(スルーボアバルブ)を開発したりした為、この問題は完全に解決したと言えるだろう。また、ドイツ式トロンボーンではバルブをチューニング管に組み込むのが一般的な為、バルブ無しのチューニング管と差し替える事により容易にバルブの使用を選択できるようになっている。

ある程度熟練した奏者だと、F管の使用の有無でほとんど音色に差が感じられないが、やはり多かれ少なかれその差は現れる上、吹奏感がF管使用時とB管時で大幅に異なるため、F管アタッチメント付テナーを嫌う奏者もいる。そのため、一般的なトラディショナルロータリーだけでなく、セイヤーバルブ(アキシャルフローバルブ)、ハグマンバルブなど、吹奏感や音質が均一化されるように様々なバルブが研究・開発されている。

従来、ヘ音記号下第3間のHをF管アタッチメント付テナーで演奏するときは、通常よりも長く抜くことによりE管の管長にして対応していた。だが、近年ではドイツのタイン社がテナーバスにさらに追加のアタッチメントを加えて、煩雑な操作を必要とせずにヘ音記号下第3間のHを吹奏を可能にしたモデルも出現している。

あまり低音域を用いないジャズやポップミュージック奏者は、テナーで済ませてしまう場合が多い(そもそもこうした分野で用いられる管径の細いタイプのトロンボーンでは、F管アタッチメント付テナーはほとんど製造されていない)。逆に管弦楽や吹奏楽、ブラスバンドでは圧倒的にF管アタッチメント付テナーを使う奏者が多い。

バストロンボーン [編集]
バストロンボーン(bass trombone)は、テナーやテナーバスのそれらよりもやや大ぶりな楽器であり、より太いボアとより大きなベルを持ち、1つまたは2つの追加のバルブを備える。調性は同じである。詳細はバストロンボーンの項を参照。

コントラバストロンボーン [編集]
コントラバストロンボーン(contrabass trombone)は、テナーやテナーバス、バスのそれらよりも3度から5度低い楽器で、長いスライドを操作するためのハンドルを備える。また、2重のスライドを持つ1オクターブ低いB♭管の楽器を指すこともある。混乱を避けるために、前者は時に「F管バストロンボーン」と呼ばれる。現代ではあまり使われない。詳細はバストロンボーンの項を参照。

これに非常に近い楽器としてチンバッソ(後述)も存在する。

サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ


2009年03月27日

ドラッグ・アンド・ドロップ

ドラッグ・アンド・ドロップ (drag-and-drop) とは、画面上の仮想的な物体を移動するためのグラフィカルユーザインタフェース上の操作の一つである。二つの物体を関連させた様々な動作を行うために使われる。

ドラッグ・アンド・ドロップはOS/2のワークプレース・シェル (WPS) において広く使用された。WPSでは、ドラッグ・アンド・ドロップのために右ボタンを使用し、左ボタンは選択やクリックのためのみに使われていた。

動作 [編集]
ドラッグ・アンド・ドロップの操作は基本的に次のように行う。

対象となる物体上でマウス(あるいは他のポインティングデバイス)のボタンを押し、そのまま離さない。
ボタンを押したまま、ポインタを移動先の場所まで動かす(ドラッグ)。
目的の場所でボタンを離す(ドロップ)。

例 [編集]
例えば次のような場面でドラッグ・アンド・ドロップが使われる。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

ファイルを、アプリケーションアイコンやウィンドウに渡す。
ファイルを、別のフォルダに移動あるいはコピーする。
ウィンドウをマウスで動かし、レイアウトを変更する。
文書の編集において、テキストをある場所から他の場所に移動する。

2009年03月11日

コパン

コパンは、ホンジュラス西部にある古典期マヤの大都市。1980年にユネスコの世界遺産に登録された。

コパンでは少なくとも16代の王が即している。16代目の王の即位に際して製作された祭壇Qのレリーフでは、各々の名前を示すマヤ文字の16人それぞれの王が刻まれている。また側面のレリーフに17代目の王を刻んだ祭壇Lがあるが、この祭壇は未完成であり、17代目の王が即位したかどうかは不明。


歴代王
キニチ・ヤシュ・クック・モ/K'INICH YAX-K'UK [MO] ?偉大な太陽・コンゴウインコ
8.19.10.0.0 - 9.0.0.0.0 (AD 426 - 435)
わかっていない?(ポポル・ホル Popol Hol 茣蓙頭)
9.0.0.0.0 - ? (435 - ?)
わかっていない
? - 9.2.10.0.0 (? - AD 485)
わかっていない ?(ク・イシュ Cu Ix)
9.2.10.0.0 - 9.3.0.0.0 (485 - 495)
わかっていない
わかっていない
B'ALAM-?-na ?(睡蓮ジャガー)
9.3.10.0.0 - 9.5.10.0.0 (504 - 544)
わかっていない
わかっていない
tzi-B'ALAM-ma ?(月ジャガー)
9.5.10.3.0 - 9.7.4.17.4 (26 May, 553 - 26 Oct, 578)
K'AK-?-wa CHAN-NA YOA:T? ?(ブッツ・チャン Butz' Chan 煙る天)
9.6.9.4.6 - 9.9.14.16.9 (30 Apr, 563 - 23 Jan, 628)
K'AK-u-? HA?-K'AWI:L ?(煙イミシュ)
9.9.14.17.5 - 9.13.3.7.7 (8 Feb, 628 - 18 Jun, 695)
ワシャック・ラフン・ウバク・カウィール Uaxac-Lahun-u-b'a-hi K'AWI:L??18兎
9.13.3.6.8 - 9.15.6.14.6 (9 Jul, 695 - 3 May, 738)
キリグア王カック・ティリウ・チャン・ヨアート(「カウアク空」)によって捕らえられ斬首される。
カック・ホプラフ・チャン・カウィール K'AK'-jo-po la-ja-CHAN K'AWI:L??空で火をたくカウィール
9.15.6.16.5 - 9.15.17.12.16 (11 Jun, 738 - 4 Feb, 749)
カック・イピヤフ・チャン・カウィール K'AK-yi-pi ya-ja-CHAN-na K'AWI:L-la ??空を火で満たすカウィール
9.15.17.13.10 - ? (18 Feb, 749 - ?)
ヤシュ・パッサフ・チャン・ヨアート YAX-Pa sa-ja CHAN-no yo?-a-AT-ta ??最初の夜明けの空
9.16.12.5.17 - ? (2 Jul, 763 - ?)
ウキト・トーク u-ki-ti to-TO:K'
9.19.11.14.5 - ? (10 Feb, 822)
(王の名/王の名をマヤ語の音でつづったもの?(ニックネーム)?日本語での意味の順。年代は即位した年と死亡した年を長期暦と西暦で表したもの)

歴史
モタグア川支流のコパン川に沿ったコパン谷では、B.C.1400年ごろから人類が集落を形成して居住していたことがわかっている。また、最近の研究では、このころに居住した人々はマヤ語系の言語を使用しない民族ではなかったかとの説もある。古典期の、いわゆるコパン王朝の前に先コパン王朝があったかどうかはわかっていない。

古典期のコパン王朝は A.D.435 年 (8.19.10.0.0) のキニチ・ヤシュ・クック・モ・チャン・ヨアートの即位に始まる。祭壇Qに描かれているこの王の姿は、彼がメキシコ高原の文化の強い影響下にあったことをしめしており、テオティワカンとなんらかの関係があった人物だと考えられている。当時、テオティワカンと関係が深かったティカルから送られた人物との説もある。

キニチ・ヤシュ・クック・モ・チャン・ヨアートの後に続く数人の王の業績はわかっていないことが多い。第7代の睡蓮ジャガーが現在グラン・プラサと呼ばれているコパンの中心部を現在の形に整えた。

古典期のコパンの文化が花を開くのは A.D.695 年 (9.13.3.6.8) に即位した第 13 代の王ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの時代である。この時代にコパンでは、他のマヤ地域には見られない高浮き彫りや丸彫りの技術が生み出され、コパン独特の様式を持つ石像彫刻が多く作られる。また、政治的にも絶頂期を迎え、数々の衛星都市を従えた大都市となる。

しかし、ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの統治期に衛星都市のひとつであったキリグアの反乱が発生する。当時のキリグアの王カック・ティリウ・チャン・ヨアートは A.D.724 年(9.14.14.11.19)にワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの後見の下で即位したことがキリグアの石碑Eに示されているが、カック・ティリウ・チャン・ヨアートの即位から 14 年後の 738 年にキリグアはコパンに対して反乱を起こし、コパンに勝利する。このとき、ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールはとらえられ斬首されたことがキリグアの石碑Jに言及されている。当時のコパンはマヤ地域の超大国であり、一方、キリグアはコパンに従属する王国に過ぎなかったのだが、この反乱によりモタグア川流域の覇権はキリグアに移ってしまう。この後、キリグアではコパンを模した造成がおこなわれ、またカック・ティリウはコパンの紋章文字を用い、自らをコパンの第 14 代王と名乗り始める。このことからマヤの優越王?従属王の関係が絶対的なものではなく、従属王が優越王へとのし上がることができる流動的なものであったことがわかる。
ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸

ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの斬首のあと、コパンは急速に衰え始める。第 15 代の王カック・イピヤフ・チャン・カウィールは神聖文字の階段を建設しコパンの復興を試みるが、一見壮大なこの建造物も内部の詰め土は以前の建造物に比べると脆弱なものであることがわかっている。また第 16 代の王ヤシュ・パッサフ・チャン・ヨアートは祭壇Qによりコパン王朝の正当性を表現するが、この 16 代王が事実上コパン王朝の最後の王である。

A.D.822 年 (9.19.11.14.5) の祭壇Lには第 17 代の王ウキト・トークの即位が、祭壇Qと同じ図式で 16 代王から 17 代王に王権が渡される様子が表されているが、この石碑は直方体の1面しか彫刻されておらず、完成の前に王朝が崩壊したことを示している。

遺跡
コパンの遺跡は大きく次の3地区に分かれる

ラス・セプルトゥーラス
グルポ・プリンシパルの北に位置する建造物群で、古代の貴族の居住地域とされている。ピラミッド状の巨大な建造物はないが、「書記官の家」と呼ばれるものなど、約40の建物が配置されている。

グルポ・プリンシパル(プリンシパル・グループ)
グラン・プラサなどを含めた巨大な建造物のある地区。グルポ・プリンシパルの比較的大きな部分が、隣接するコパン川の蛇行によって削られ、遺跡公園の外に向かって、建造物群の断面を見せている。グルポ・プリンシパルの主な遺跡は次の通り。(かっこ内の数字は建造物の造られた年を長期歴と西暦で表したもの)

建造物26は「神聖文字の階段」とよばれ、62段の階段を構成する2000個あまりのブロックのすべてにマヤ文字が刻まれている。本来なら、これは、マヤ文明で発見されている、マヤ文字による最長のテクストだが、崩壊したブロックを階段状に再構成した時代ではマヤ文字の解読が進んでおらず、語順を無視して積み上げられたためテクストの意味は失われている。

メソアメリカの遺跡に共通して見られる球戯場遺跡の中で、コパンのものは古典期のものとしては最大である。球技をおこなうコートの両側が斜面になっており、その上に観覧席と思われる疑似アーチの建造物が建っている。斜面の上部にはゴールと思われるオウムの頭部の石像が配置されている。

16代目の王ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアートの時代に建造された祭壇Qでは、祭壇の4つの側面にそれぞれ4人ずつ 16 人の王が自分の名前を意味するマヤ文字の上に座する形で彫刻されている。祭壇の正面は初代の王キニチ・ヤシュ・クック・モがヤシュ・パサフ・チャン・ヨアートにバトンのようなものを手渡している構図となっており、即位に当たってヤシュ・パサフ・チャン・ヨアートがコパンの正統の王であることを主張している。

エル・ボスケ
現在発掘中のエル・ボスケ地区は、ラス・セプルトゥーラスと同様、居住地域と考えられている。


ダリエン国立公園

ダリエン国立公園は、パナマのダリエン県にある、ユネスコの世界遺産にも登録されている国立公園である。コロンビアとの国境付近に広がっており、国境の向い側にはコロンビアの世界遺産であるロス・カティオス国立公園が広がっている。

1980年に国立公園が設定され、1983年には生物圏保護区に指定された。背景にあったのは、当時建設が進められていたパンアメリカンハイウェイの建設工事が、国境付近の環境の悪化につながることが懸念されたことである。国立公園が設定された結果、この縦断道路はパナマのヤビーサ付近で一度途切れることになった。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

植物相
ダリエン国立公園には海岸線や山岳地帯が含まれるため、マングローブ林、ヤシ林、、多くの地域をしめる鬱蒼とした熱帯雨林など、多彩な植生が存在している。植物種は非常に多彩で、樹木の種類は300種以上、ラン科の植物は1000種以上生育している。

動物相
熱帯雨林は多くの動物たちの住み処になっている。北から南下してきた動物たちと南から北上してきた動物たちが集まって、独特の動物相を形成している。国立公園内に生息している哺乳類には、世界最大の齧歯目であるカピバラをはじめ、ピューマ、オセロット、ノドチャミユビナマケモノ、セアカリスザル、ベアードバク、ヤブイヌ、アライグマ、パナマスベオアルマジロなどがいる。このほか、かつてはネコ科最大のパナマジャガーも棲息していたが、絶滅してしまったようである。

爬虫類は、メガネカイマン、グリーンイグアナなどが棲息している。鳥類は非常に多く、ハチドリやオウギワシなど1000種以上の棲息が確認されている。

先住民文化
ダリエン国立公園内には、アメリカ先住民のチョコ人たちが、伝統的な文化を守って生活している。国立公園の設定は、自然環境保護の面だけで無く、彼らの文化の保持にも一役買っている。

2009年02月23日

マラヤーラム語

マラヤーラム語(??????)(英:Malayalam)は、インド南部のケーララ州などで話される言語である。インドで認められている22の公用語のうちの一つであり、話者は約3,570万人。マラヤラム語を話す人々は「マラヤーリMalayali」(まれに「ケラリートKeralite」)と呼ばれる。

マラヤーラム語はドラヴィダ語族に属する。言語の基本構造と正書法は、ともにタミル語によく似ている。マラヤーラム語は、独自の文字マラヤーラム文字をもっている。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

タミル語、コタ語(Kota)、コダヴァ語(Kodava)、カンナダ語およびマラヤラム語は、ともにドラヴィダ語族の南ドラヴィダ語に属している。いずれも、タミル語への類似性はかなり顕著である。その中でもマラヤラム語はタミル語に極めて近縁の言語であり、原タミル・マラヤーラム語、すなわちタミル・マラヤーラム語族からタミル語とマラヤラム語へ分離したのは、9世紀から400?500年間のように見える。初期のマラヤラム語は、当時は方言関係にあった初期タミル語から多大な影響を受けた。このことから、マラヤーラム語はタミル語の妹と言われる。その後、不可抗力的なNamboothirisによるケラーラへの文化的生活への侵入、アラブ人との交易、北インドのイスラーム化に伴う南インドでのヒンディー意識の高揚とそれによるサンスクリット使用の増加、ポルトガルによる侵略などを経て、マラヤーラム語はインド・アーリア語派、セム語派、ロマンス語などから、タミル語とは異なるレベルの影響を受けた。この点はドイツ語(より正確にはザクセン語)と英語の関係に似ている。 このことからきわめて近縁な言語でありながら、タミル語との意思疎通はそれほど容易ではない。言語学的に見ても同一言語の方言とは言いがたい面がある。 ケーララ州とラクシャディープ諸島は、世界中で唯一マラヤーラム語が主言語となっている地域である。

マラヤーラム語の口語の文法は、次のサイトで見ることができる。[1](英語)

文学の発展
マラヤーラム語が書かれた最も初期の記録としては、vazhappalli碑文(概ね紀元前830年)がある。マラヤーラム語の初期の文字は、次の三つの特徴から構成された。

タミルに伝わる、/Pattu/と呼ばれる古い歌
マラヤーラム文字にサンスクリットの特徴を埋め込むこととなった、/Manipravalam/と呼ばれる伝説
原住民による豊富な民謡
マラヤーラム語で書かれた散文で、現存する最も古いものは、チャナークヤ(Chanakya)のアルササストラ、Bhashakautaliyam(12世紀)に対する、マラヤーラム語による単なる注釈である。異なる時点で書かれたマラヤラム語の散文は、その時々における、他の言語から受けたさまざまレベルの影響を示している。前述のタミル語・サンスクリットのほか、プラークリット、パーリ語、ヘブライ語、ヒンディー語、アラビア語、ペルシャ語、ポルトガル語、オランダ語、フランス語そして英語。近代の文学は、詩、フィクション、ドラマ、伝記及び文学評論に富んでいる。

文字
/vattezhuthu/(円形文字)であるグランタ(Grantha)文字は9世紀にまで遡る。これを元とした汎インド・ブラーフミー文字が、マラヤーラム文字体系の起源である。この文字体系では、一続きになった文字要素は文節として読まなければならないが、個々の母音と子音を表す要素は容易に識別可能である。1960年代にマラヤーラム文字は、それほど頻繁に結合しない子音の特別文字と、母音/u/と結合するそれぞれの子音を分配した。

現在のマラヤラム文字は、20文字の長母音・短母音・休止子音を含む53文字からなっている。初期の形式の記述は、1981年から新しい形式の記述と置き換えられた。この新しい文字体系は、900種類近くあった活字を90種類以下にまで少なくした。この体系移行は、タイプライターやコンピュータのキーボードでマラヤラム語を打ちやすくするために行われた。

1999年には、ChitrajakumarとK.H. Husseinが率いるRachana Akshara Vediと呼ばれるグループが、完全な文字のレパートリーを網羅した、900文字以上のフリーなフォントを開発した。同年には、ケーララ州の首都ティルヴァナンタプラム(トリヴァンドラム)で、エディタとともにリリースされた。2004年にはこのフォントが、ケーララ州コチ(Kochi)のコーチン(Cochin)科学技術大学から、GNU GPLライセンスでリリースされた。

言語変化及び他言語の影響
イントネーションの種類・語彙・文法のばらつき・音韻変化は、地域、共同体、職業、社会階級、流行および記述で観察することができる。サンスクリットからの影響はマラヤーラム語全体で大きいが、高位カーストの方言で特に顕著である。また、少なくともハリジャン方言では、他のインド系言語の影響が強い。クリスチャン方言では、英語、シリア語、ラテン語、ポルトガル語からの借用語が多く、ムスリム(イスラム教教徒)方言では、アラビア語およびウルドゥー語(ヒンドゥスターニー語)からの借用語が多い。

マラヤーラム語は、サンスクリットから何千もの名詞、何百もの動詞、いくつかの語尾変化を借用している。いくつかの基本語彙はサンスクリットからマラヤラム語へそのまま使われている。インドの他の地域と同様に、サンスクリットは貴族階級や学校教育が使う言語と見なされる。ちょうど、ヨーロッパにおけるラテン語の地位に似ている。

マラヤーラム語の話者の2%を占めるNamboothiri方言においては、サンスクリットの影響は多大に制限されている。同時に、ポルトガル語とアラビア語の借用も制限されているが、数の点ではサンスクリットの方が少ない。

関連項目
Malayalam words
words of Malayalam origin
サンスクリット語
ヒンディー語
ウルドゥー語
アラビア語
タミル語
カンナダ語
テルグ語

2009年02月06日

日本列島の旧石器時代

日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、日本列島への人類居住とともに始まる。人間の足跡は、約20?30万年前まで遡るかもしれないともいわれているが、確実な遺物は出土していない。確かな年代が得られているものとしては、約3万5千年前[要出典]からで、終わりは約1万3千年前頃まで(地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭。)である。
ミクロ ノミネー トップ ミゼラブ パビリ フルセッセ 南瓜 シナプス ブーツ ドミニ しんちょ じょうへん ビデア ころどこ ノーシード ククル シューズ ピリミジン レーシズム オーバ モチノキ ジョーンズ ティマイオ サファリジ ウイグル ストリ サーチ バーボ ダイパーズ 勿忘草 サイドス るじゅつ テキサス デビル ゴジラ しいたけ リスト きびざけ にしき パンハ ミラクル ジオラマ オートマト テディー ヒメウ シャツラ サニー ルーム フランベ 湾岸


日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前である。その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には大陸から離れ、現在の姿の日本列島ができあがった。

動物相
日本列島には、幾度となく北、西、南の陸狭(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。

2万年以前の日本列島には43万年前にやってきたナウマンゾウなどの中国北部の動物群やそれ以前からいたものが棲息していたが、最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それらの混合相となった。また、マンモス動物群を追って後期旧石器人が渡ってきた可能性が高いと推測される。本州・四国・九州・琉球では、新しい動物群が入ってこれなかったために古くからその地域に生息していた固有種が多く残ることとなったと考えられている。これらの地域では、後期旧石器人は入ってこなかった。

前・中期旧石器の発掘
笠懸野岩宿文化資料館日本では縄文時代より前の時代を先土器時代とか無土器時代とかと呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県みどり市笠懸町岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。

1973年には武蔵台の栗原遺跡と千葉の三里塚55地点遺跡で刃部を研磨した磨製の斧形石器が発掘された。出土層準は約40,000?30,000年前の立川ローム第X層中であり、分布は列島全域に亘る。これら刃部磨製石斧は現時点で世界最古の磨製例であるが、3?4万年前に集中し、その後は草創期まで出現しない。しかしこれら磨製石器の出土によって旧石器時代の人類の生息が示される(小田静夫「旧石器時代の磨製石斧」)。


後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。これらの論争は「丹生論争」「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。

1970年代にはいると前期旧石器の探索は薄らぎ、層位編年研究や遺跡構造の解明へ傾斜していった。 1980年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に「発見」された。発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す「成果」とされた。しかし、2000年11月に、藤村が宮城県上高森の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、同年11月5日に旧石器発掘捏造を報じた。その後、日本考古学協会の調査で藤村が関与した33か所の遺跡のすべてが疑わしいものとされ、いまのところ、前・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しないと理解されている。

2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡で「約10万年前の地層の中から石器が発見」と報道されたが、段丘発達が明瞭ではない平戸地域において、層位が明瞭とはいえない状況であり、約2万2、3千年前に鹿児島の錦江湾から噴出した姶良火山灰層(AT)より古いとしか断定できていない。2006年1月現在、日本の旧石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので、4万年前まで遡るかどうかといった状況である。

住居と墓制
日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。

日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。

旧石器時代の人びとは多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうしたなかにあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。

住居は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。

調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことがわかる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。

そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはできていたらしい。呪術的なものとしてつくられたらしい高さ約9センチ、幅2?3センチの「こけし」形の石偶(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。集落の規模と構成はまだ分かっていない。

日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。しかし、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうした動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。この期の遺跡の調査例は少ない。石器や生活道具類が発見される程度である。短期間の移動生活をしていたのではないかと推測される。

2009年01月22日

サンダカン死の行進(―し―こうしん)

サンダカン死の行進(―し―こうしん)は、1945年、太平洋戦争中に大日本帝国が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所における日本軍によるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対するデスマーチである。これに伴い1000人以上の捕虜がわずか6人を除く全員死亡した。

1942年、ボルネオ島東北に、空港建設を進める為にボルネオ捕虜収容所の分所として設置されたサンダカン捕虜収容所(所長:星島進大尉)には、1943年秋の時点で、オーストラリア兵1800人、イギリス兵700人、計約2500人が収容されていた。彼らは飛行場建設に使役されていたが、ライオネル・マシューズ中尉が地元住民と協力してオーストラリア軍の上陸に備えていた「サンダカン事件」の発生や日本軍の戦局の悪化による厳罰化、南方軍司令部からの命令による食糧の配給の削減(当初一人一日550?700gの米と400?600gの野菜が支給されていたが、1945年1月には米200?300gに削減。しかし実際には米100gとわずかな野菜しか支給されなかったという)、医薬品不足などにより待遇は悪化。ジュネーブ条約はおろか陸軍懲罰令さえ無視した捕虜虐待、強制労働に加え、伝染病、栄養失調が蔓延。病死により1944年末には既に計1850人に減っていた。

第一団
連合軍のボルネオ島への空襲が相次ぐようになり、1945年1月に日本軍は空港の修復を断念、強制労働は停止された。しかしアメリカ軍がボルネオ島西海岸に上陸すると恐れた日本軍は、兵の移動と共に捕虜をボルネオ島西、260km離れたラナウに移動させる事を決定。

第一弾として、捕虜500人を12日間で落伍者無く移動するようにとの命令が、山本正一大尉に下された。山本は医薬品供給の増加と3週間の日程を要求するが、これは司令部によって却下。結局比較的頑健な470人が出発することとなり、出発前に山本は最後尾の第九班の責任者・阿部一雄中尉に落伍者の捕虜を処分する許可を与える。

1945年1月29日から2月6日にかけて470人が9班に分けられて、間を置いて出発。捕虜たちは熱病と栄養失調で弱った体に約30kgの日本兵の荷物を背負わされ、豪雨でぬかるむ密林を徒歩で移動する事となる。靴を履いていた者は、1割程度だった。さらに約束されていた食料の支給もままならず、各班の責任者は食料の確保と支給に留意するものの、状況は悪化し、後半の班はカタツムリやカエルなどを口にして飢えをしのいだという。

劣悪な環境下での行軍は、捕虜にも日本兵にも少なくない犠牲者と死者を出した。そして動けないと判断された捕虜は、「落伍者を出さない為に」阿部中尉の命令を受けた兵士によって射殺された。しかし目的地にたどり着いた捕虜たちに安堵する暇はなかった。

ラナウに到着した第一班?五班の捕虜約200名は、食料と医薬品不足の中労働に狩り出され、元気そうに見える者は45km離れたパギナタンまで20kgの米袋を担がされて歩かされ、途中で倒れた者は殺害された。 第六班?九班の捕虜約200名は途中で40名ほどが落伍し、途中のパギナタンで行軍は中止。第一班?五班の捕虜が運んでくる食料に頼りながらも、約一ヶ月で生存者はさらに100人ほど減った。 生存する捕虜全員がラナウで合流した4月時点での生存者は約150人となっていたが、その後第二団が到着する6月下旬に生存していた捕虜は、6人だった。

第二団
サンダカン捕虜収容所では連合軍の空爆により三十人近い死傷者を出す一方で、食糧配給の削減により、1945年3月には毎日10人以上の死者が出ていたという。さらに4月以降は米と水の配給が停止という、事実上組織的に捕虜を殺害する動きが明白になり、6月末には捕虜の数は830人弱まで減る。

5月17日に星島大尉に代わり高桑卓男大尉が所長に就任。収容所に空爆に加え艦砲射撃をも受けた高桑は、5月20日に受けていた捕虜移送命令を急遽決行。5月29日夜、歩ける者536名・11班を出発させると同時に、ごく一部の建物を残して収容所は焼き払われた。衰弱していた捕虜たちは監視員らにより激しい暴行を受け、かつジャングルに追い立てられて殺害された。行軍から落伍した捕虜を渡辺源三中尉率いる監視員たちが暴行し追い立て、それでも動けない捕虜は後から来る辻曹長率いる班に引き渡され、処刑された。処刑はすべて台湾人の監視員が実行させられた。捕虜への食料は1日米85gしか支給されず、6月25日にラナウに到着した捕虜は183人となっていた。その代わり、日本軍兵士からの落伍者は殆どいなかった。

この時、キャンベル、ブレイスウェイトの二人が別々に脱走、米軍に引き渡されて生還している。

第三団
収容所には288人の捕虜が残されていた。彼らの殆どは衰弱して動けない病人であり、後は仲間の面倒を見る為に自発的に残った捕虜たちだった。既に建物は焼き払われ、彼らは木や葉っぱで雨をしのぎ、医薬品も食料も支給が停止されていた為、野草の根茎や腐った残飯を食べて生き延びていた。

6月9日、森竹中尉は岩下少尉ら37人の日本軍兵士に75名の捕虜を選抜し、出発させた。この第三団は一人の日本兵を除いて、全滅している。

サンダカン残存者を殺害
サンダカンには6月9日に185人の捕虜が残されていたが、7月12日にはその数は50人に減っていた。高桑大尉より早急にサンダカンから撤退し、捕虜を処分せよという命令を受けていた森竹中尉は、自然死が確実な27人を放置し、23人を処刑する事を決定。翌7月13日に室住久男曹長に捕虜の処刑を命じ、室住は12人の台湾人監視員に銃殺の実行を指示、躊躇する監視員には拳銃を抜いて脅迫。23人の捕虜は銃殺され、その死体は防空壕に投げ捨てられた。残る27人の捕虜はその後も一ヶ月近く生き延び、8月14日か8月15日に最後の二人が死亡したという。

ラナウの捕虜も全員殺害
ラナウでは6月25日には約190名の捕虜が生存していたが、6月28日にはもう19人が死亡していた。生き残った捕虜たちは、1日米70?75gというわずかな食料で、過酷な労働(衰弱した体で、20kgはある食料の運搬、水汲み、設備建築作業など)に従事させられていた。

かねて台湾人監視員より高桑は捕虜全員を殺害すると聞いていたキース・ボッテリル以下4名が、7月7日夜に脱走。3名がオーストラリア軍に救出される。

7月18日には捕虜収容所という名の草ぶき屋根の小屋が完成。生き残っていた捕虜72人のうち、赤痢患者である34人が床下に押し込められる。彼らにはもはや死体を埋葬する体力もろくに残っておらず、7月20日には強制労働が停止される。

7月26日、スティップウィッチ以下2名が脱走し、スティップウィッチのみ助かる。

8月1日朝、高桑は生き残っていた33名の捕虜を三つのグループに分けて処分する事を決定。動ける者は自らの足で墓地まで向かう事を強要され、動けない者は担架で運ばれ、全員が銃殺され、処分は終了した。

結果として、2500人いたオーストラリア人・イギリス人捕虜は、自ら脱走した6人以外はことごとく死に追い込まれる(イギリス兵士の生存者はゼロである)という、パーセンテージで言えばバターン死の行進やホロコースト以下の生存率であった。
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戦後
オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により、収容所側兵士達には

星島進大尉  絞首刑
山本正一大尉 絞首刑
阿部一雄中尉 死刑
高桑卓男大尉 絞首刑
渡辺源三中尉 銃殺刑
室住久雄曹長 終身刑
といった極刑が科せられ、殺害を実行した台湾人監視員達には、懲役刑が科せられた。

サンダカン捕虜収容所を統括するボルネオ捕虜収容所クーチン本部に指令を出した第三七軍司令部に対しては、馬場正郎中将(軍司令官)が絞首刑になったものの、第一回の捕虜移動を計画した山脇正隆中将(前軍司令官)はこの件に関しては一切罪に問われる事はなかった。ボルネオ捕虜収容所全体の最高責任者であり、関係者の中では比較的人道的であった菅辰次大佐は9月16日に自殺していた為、訴追される事はなかった。

また、収容所の料理人が「(1945年6月初旬?7月初旬に)捕虜が材木製の十字架に釘で固定されて生きたままナイフを使って肉と内臓をえぐり出されていた」「7月に23人が射殺された後に生き残っていたのは28人で、そのうちの一人が刀で斬首された」と証言し、該当する場所から十字架や頭蓋骨が離された白骨死体などが発見されたが、日本軍兵士側は否定し、裁判には至らなかった。

ちなみに殺害されたオーストラリア兵の一人は、ポール・キーティング第24代オーストラリア首相のおじであると報道されている。